【歴史概要】
記録されている最初としては、西暦758年神門百済伝説の神門の戦いに中之又の兵の参加に始まる。
1418~1505年
熊本の菊池氏(後の米良家)戦いに敗れ、隠れ里を求めて米良の地に隠れ住んだ。
肥後没落後、付添居家之名取、浜砂、中武、佐藤,黒木、甲斐、田爪、小河、山崎、八代らが江戸時代には旗本格で5年に一度江戸へ参勤交代をした。
1504年
都農より地頭頭として都甲氏板谷に来住後、中野に移住、中之又鎮守神社創建(1504年7月21日)。
1578年
石城(石河内)にあった長友源次郎(八兵衛尉宗弘:安部、長友、海野家)を島津氏が2度攻めたが落城せず、和議扱いとなる。宗弘は弓木に引籠もり、後、板谷、筧木に居住。板谷本山天神社創建(1588年)
以後米良家の支配となり、明治初めまで続いた。
・都甲家は米良6代領主重隆より米良姓を賜り一時米良姓を唱えた
・阿部家は米良6代領主重隆より中武姓を賜り一時中武姓を唱えた
1962年(昭和37年)
木城町編入合併までは東米良村
役場は瓢箪淵(ひょうたんぶち)という所にあって塊所から16km。山道なので歩いて片道4時間かかった。
秋には尾八重小、小椎葉小、岩井谷小、中之又小と4小学校連合運動会があり、小椎葉小と岩井谷小には泊まりがけだった。
【Topics】
・御大師講
江戸時代末期、安政年間中之又地区に疫病が蔓延し、多くの方が亡くなり、村人たちを恐怖のどん底に落とし入れた。 
亡くなった方々のご供養と家内安全・無病息災を祈願して大数珠を作ることになった。材料は桐、直径約3cm、と6cmの珠を16mの麻紐に通し、2箇所に房を付けた。重さ4kg。
1860年(安政6年)旧暦9月20日完成。宝明院英海山伏様の御祈願によって盛大に数珠回し行われる。以来、毎月20日の晩に御大師講として「周り宿」で数珠回し。
昭和48年、過疎の波打ち寄せて御大師講も何時の間にか終わりをつげたが、大数珠は今もなお黒光りして残っている。 ・200体の御大師像
江戸時代末期、中之又部落に權大僧都宝明院智永英海という他の村迄知られた有名な坊さんが居られた。その坊さんの開山願いにより、四国の国から尊像彫刻師をはるばる中之又部落によんだ。カヂヤ内谷という所の大きな岩屋に篭り朝夕冷水にて身を清め草木を主食とし、600日の永い日数を掛け、200体余りの尊像を完成した。その後、部落の人の働きにより数キロの山道を作り、数十箇所に渡り尊像を立て、年一度旧3月21日を御大師祭として今尚続いている。
・中之又の古社寺
中之又鎮守神社
板谷天神(春日神社、鹿倉神社)
鹿倉神社(弓木神社)
鹿倉神社(莧木神社)
鹿倉神社(愛宕神社) 屋敷原
薬師堂 屋敷原
役の行者 弓木
三宝荒神 弓木
都甲肥前守の墓 莧木
長友八兵衛尉宗弘の墓 板谷
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